じゃあお前がやってみろよ理論の話

少し前、友達から指摘されたことがある。

「お前はもっと◯◯ができないのか」

 

その時、私はカッとなって反論した。

「ならお前はできるのか」と。

 

 

YouTube界でかつて一斉を風靡した某ユーザーはこんなことを言っている。

「ほならね、自分がやってみろって話ですよ。」

 

私が書いたこの2つの文章には共通する点があるが、もうおわかりだろう。

そう、「文句を言うなら自分はできるのか」ということだ。

この理論について、今回は書いていこうと思う。

 

この理論は、過去かつてかなり議論が重ねられてきた話で、未だに賛否両論分かれている。

 

賛成派は、「なんでやってもいない奴が指摘をするんだ、私がやっている事なのだから良いじゃないか。」といった感じに、否定されている事を前提としている。

反対派は、「批判する事で、改善されていくのに、それがなかったらいつまでも同じままではないか。」といった具合に改善させる事を前提としている。

 

ここで押さえておいてほしいのは、どちらの意見も間違っていないということだ。

 

では何故、議論になるのか。

それは単純明快、相互の意見を否定しあっているからである。(当たり前か。)

 

ここからは私の個人的意見になる。

 

私は当初上の議論において賛成派に立っていた。

 

 

一番最初に書いた会話の後に、その友達はこう言った。

「指摘されなかったら、いつまでも気づけないし、なにより偉くないと語れないのであれば誰も得をしないし楽しさも生まれないだろう。」

「例えば、サッカーやテニスや相撲の実況(解説)をする人がいるだろう。君の言う『じゃあお前ができるのか理論』が正しいとするのなら、実況者は選手たちよりも上手くならないといけない。では、メッシやジョコビッチ白鵬のプレイは誰が実況するのだ。誰が育てるのだ。」

 

この話は民主政治などにも当てはめることができる。この理論が正しいのであれば、今頃大変なことになっていると思う。

 

ただ、正しいとはいえ、この理論でなくてはいけないところもある。

料理屋さんで、料理を食べた時、「まずい!美味しくない!」と言ってしまうことだ。

何でもかんでも指摘すれば良い、感情を相手に押し付ければ良いというものでもないのである。

 

だからこの理論は終わりがない。

ただ、この理論に対する良いところとダメなところを理解することで、実際にこの手の話題が降りてきた時、恥をかかなくて済むと思う。